そのまま歌ってくれ

 

いてもいなくてもいいような毎日を過ごしている。誰がいなくても世の中は止まらないし誰がいなくなっても誰かが悲しむ。悲しむ誰かが必ずいるから生きてくれっていうのもわかるけど、生きることに苦しんでいる人にそれを求めるのってなんか過酷じゃないか?死にたい人の死にたさを生きなきゃで否定しても誰も救われないのだ。

 

でも死んだら楽になるとなんの根拠もなしに信じ込むのも不思議な話だ。だって死後の世界から今の世界に戻ってきた人なんて聞いたことないのだから。本当は世界に数人はいるのかもしれないけど。でもまぁ死んだら楽になるというのはあくまで空想上の救済であってほしいよね。そうでなくては私を含む世界の大半の人は死ぬよね。

 

でも世紀末てきな東京はクソだ的な生きるのは辛い的な歌を歌ってくれる人は大好きだ。頑張れ頑張れ前向けソングはエネルギーを削がれるときがあるので聞くと思い込んだときに聞くようにしている。生きることは救いと思い込んで生きているものとしてはあまり世界を煌びやかに彩って欲しくない夜というものが、あるのだ。世の中クソ、あの女も、あの男も、自分も、全部クソって思わないとやってられないときにクソッタレな歌が私を救ってくれるのだ。

 

だからロックは良いよね!ジャパニーズロックにドロップキックでよなよなエールする夜が必要な人間がいるのだ。

 

基本自分クソで自分嫌いだから。生きてる時間も嫌いになるときがあるから。でもたまにすごくピカピカのビー玉みたいに幸せな光を感じられるときがあるから生きてる。まぁビー玉なんか簡単に割れるけどね。そんときはそんときで割れていればいいと思っているけど。

 

元気なくなったらとりあえずシャボン玉つくると綺麗だし楽しいからシャボン玉やるといいよ。シャボン玉は割れるけどそれを構成した粒たちは世界に溶け込んでいって、そうやって私や貴方の悩みもつらさも肯定も否定も世界に溶け込んでいっているんだよ。だからたまにそういうどうしようもない夜を乗り越えるためにそのまま歌っていて。

 

 

知らないままでいたほうが

 

人身事故で電車が止まっていた。毎日のように人身事故で電車が止まっているので、そこで誰かが亡くなっているのだとかそういうことを考える間もないほど遅延の処理のため方々に電話をかける。気づくと電車は運転を再開している。

 

私も油断していると「えー、電車遅れてると困るんだけど」と考えてしまうときがある。もしかしたらその場で1人の人生が終わっているのかもしれないのに。白状な人間だと思う。

線路に飛び込みたくなるほど辛いこと、悲しいことってなんだろうと考えるときもある。何も考えてなくてもふわっと線路に吸い込まれてしまうときがあるのだと思う。満員電車のなかで人はいつも死んだ目をしている。そういう気持ちになることがあることも少しだけわかるときがある。でも知らないままでいたほうが良いことが世の中にはたくさんある。

 

死にたくなるほど死にたい人の気持ちなんて知らないままでいたほうがみんな幸せ、ハッピーだ。最近WANIMAというバンドが流行っていて、たまに聴くのだが、前に前に上に上にもっともっと頑張れという感じの曲調は聴くときに聴くと神経がすり減る。いや別にWANIMA悪くないけど。ファンモンとかGReeeeNとか定期的に前向きソングが流行るのは世の中の闇を現しているような気がしてしまうのだ。少なくとも私は死にたいほど辛いときは前向きソングは聴きません。前向きすぎて前向きになれない自分を責めてしまうので。そういう曲に素直に共感して前向きになれるような人が良いのだと思う。何に良いのか?あまり考えないようにする。

 

人身事故の話、死にかたに迷惑とか迷惑じゃないとかそんなものないと思っている。ただつらくて悲しい人がいたんだと少し想像するだけ。知らないままでいたほうが良いのかもしれないけど、その人の立場を10秒だけでも想像してみる。そうしたら少しだけ世界は優しくなれるのかもしれないと思うから。

 

 

ゆとり世代で良かったと思うことなんて一度もなかった

ゆとり世代で良かったと思うことなんて一度もなかった。

 

ゆとり=お馬鹿みたいな刷り込みのせいで、誕生年月日を聞かれたときも「うわっゆとりじゃんw」と笑われることもしばしば。そんな環境の中で何が一番悪かったのかって、私がそんな周りの無責任な意見を跳ね除けて「どう言われようが私は私」と割り切れなかったことだ。

 

最近はゆとりネタを出されると「はい、ゆとり世代に生まれてしまってすみません。」と答えるようにしている。相手がそれでどう思おうと私ができる一番の抵抗だった。

 

ゆとり世代は怒らずに褒めて伸ばそうなんてノウハウ書籍が蔓延しているけれど、どれもほとんど上辺だけの内容だ。私は自分のこういった自尊心の低さや、他人の評価を気にし過ぎてしまうことをわかっていてくれる人であれば、怒られたって構わない。むしろそれだけ自分の内情を受け止めてくれる人になら怒られたって構わない。

要はどれだけ心が深く、自分を尊重してくれているかとらいうところにつきるのではらないだろうか。

 

心と心のぶつかり合いなくして、信頼関係ができるわけがない。それなのにマスコミやら有象無象のものたちはゆとり世代という言葉を便利に利用しているだけなのだと思う。

もう一度言うが私はゆとり世代で良かったと思うことなんて一度もなかった。ゆとり世代である私を見てほしいのではない。私は私を見てほしい。どんなことで悩んでいて、それをどうやって乗り越えようとしているのか、そういう私自身のみっともなさを嘲笑ってほしいのだ。

 

ゆとり世代という言葉は便利だ。該当世代に落ち度を見つけたらその世代のせいにすればよいのだから。しかし団塊にしろさとりにしろ、「この年代に生まれてきて良かった」と思うことなどあるのだろうか。恐らく得られるのはささやかな優越感程度のものであろう。世代というカテゴリに安易に頼らずに、1人1人の人となりを見れる人間になりたいものである。

 

 

誰も愛しかたを教えてくれない

あなたのことはそれほど、ドラマ化しましたね。毎回観てます。原作から追いかけていたのでちょっとイメージが違うなと思ったりするのですが、東出くんが好きなのでそれが全てです。

 

東出くんの役である涼太というキャラクターは狂気的な愛の持ち主と謳われていますけど、なんか原作読んでいたときはあんまり考えなかったのですが、正しい愛ってなんだよと思いました。若干ネタバレになりますが、涼太の美都に対する愛し方って涼太の父親の影響を多分に受けているんですよね。愛する妻のためなにも怒らず指摘せず、ときには愛息子の気持ちさえも無下にしてしまう妄信的な愛情。子供から大人になるようにどのように愛し合うかをどうやって見てきたかってすごい影響力ですね。

 

個人的には美都もそこらへんかなり迷走してると思うんですけど、お父さん不在で大人になっているようなのでそのあたりもっと掘り下げていくと美都の「思い込みの激しさ」の所以もわかってくるのかも。

 

まぁでも涼太や美都を否定したからといってどういう愛しかたが正しいのか私はわからないです。というか、そういうのって誰も教えてくれないですよね。なんでだろうと思って。みんなそれで死ぬまで悩んだりしているのに、なんで愛しかたを教わる場所ないんだろ。見た目をどうとか仕草がどうとかいうのはあくまで入口の話であって、涼太が何をどうなおしていくか、なおす必要がそもそもないのかなんて誰も教えてくれないですよ。スタンダールだって個人的哲学を述べるにとどまっているじゃないかと否定的に見ちゃいます。とはいえ不倫はダメという認識は勿論ですけどね。でも他人を批判できるほど自分が成熟しているとも思わないです。なのでドラマはドラマで創作物として楽しみます。

 

 

 

 

 

 

 

諸々が流れてゆく

 

幼い頃のGWといえば父に連れられてメーデーに良く行ったものだった。当時はそれが何かよくわからず、とりあえず1時間くらい歩いたら1000円程度のお金が貰えてそのあとラーメン屋に連れて行ってもらえるという程度のささやかなイベントだった。今になって思えば父も休日に労働のようなことを強いられて嫌だったろうなと考えた。そういえばGWにどこか旅行に行ったりした記憶がない。記憶がないだけで経験はあるのかもしれないけれど。

 

父と出かけることは数少なかったけれど私が一番印象に残っているのは今はもう存在しない渋谷にあったプラネタリウムに行ったことだ。

小学生の頃は夜の飼い犬の散歩に父と行くことが日課だった。冬になると星が綺麗に観えるのでよくオリオン座を探しながら歩いた。時折買ってもらえる缶のココアやコーンポタージュがとても美味しかった。たくさんの星を観たいと言ったらプラネタリウムに連れて行ってくれることになり、それまでそんな場所には行ったことがなかったのですごく楽しみだった。

 

渋谷のどこにあったのか、当時は渋谷なんて大都会で大迷宮だったのであんまりよく覚えていないが、少し錆びれたつくりのプラネタリウムで映される満点の星は私にとって充分すぎるほどの情景だった。あまり父と2人で会話はしなかったので何を話したかはほとんど覚えていない。でも星見表のキーホルダーを買ってもらってとても嬉しかった。プラネタリウムを見終えたあと同じビルに入っている喫茶店で生まれてはじめてカルボナーラを食べた。今でもあのカルボナーラが一番美味しかったと思っている。

 

そして今、あの頃一緒に散歩に行った父も愛犬も死んでしまった。プラネタリウムも閉園してなくなってしまった。あの風景を覚えているのは私だけ、そう思うと涙が込み上げてくる。なんでこんなことを思い出したのか、GWだから、メーデーがあったから、星が綺麗だったから。時間が流れていく。命も流れていく。時間とともに諸々が流れていく、そんな中で僅かな記憶だけが星の様にささやかに瞬いている。

 

 

 

フォアグラを食べるのは罪か

 

昨年初めてフォアグラというものを食べた。正直めっちゃ美味かった。独特の油の風味と蕩けるような食感。さすが世界三大珍味と思った。

 

でもフォアグラを作る過程でカモの口に無理矢理肥料を注入して太らせるということを知り、そのせいで死んじゃうカモがいたり健康が失われているという事実がなんとも言えない罪悪感を生んだ。そこまでして食べる必要があるものなのかって。

 

でもいつも肉とか普通に食べてるわけで。牛やクジラを毎日殺して生きているのに、フォアグラだけ取り上げるのも偽善になってしまうのではないかと思った。

 

 

脈絡のないことこの上ない

 

愚痴=悪ではないと頭の中でわかっていたつもりでもどうしても心の中では咀嚼しきれなかった。咀嚼できないこと、脈絡のないこと、そういう鬱憤を煮詰めて日々継ぎ足して伝統の負の連鎖を繰り返している私であります。

 

気持ちばかり急いていて身体が追いつかない日々を過ごしています。もうちょっとまろやかに生きられないものですかね。口を開けば香辛料のような香ばしい焦げみたいな愚痴ばかりで嫌になります。もうアラサーで良い歳した大人が自分の気持ちの管理ができないって。周りの声を敏感にキャッチして理想を煮詰めて煮詰めてもう食べられないよって勝手にギブアップしちゃうんですよね。周りの求めている私と、私の求めている私は違うんだって言い聞かせているのですが、「〜〜であらねば」、「○○じゃなくてはならない」という思考がずっとこびりついてます。もはやただの焦げ。

 

私の自我なんて誰も食わないただの焦げ。

 

そういう精神的なところを考えていると、誰かに聞いてほしいような怖いような気がして、孤独感を感じてさみしくなる。私も愚痴の言えたりする仲間がほしいだけの、ただのさみしがりなのかもしれないな。