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ゆとり世代で良かったと思うことなんて一度もなかった

ゆとり世代で良かったと思うことなんて一度もなかった。

 

ゆとり=お馬鹿みたいな刷り込みのせいで、誕生年月日を聞かれたときも「うわっゆとりじゃんw」と笑われることもしばしば。そんな環境の中で何が一番悪かったのかって、私がそんな周りの無責任な意見を跳ね除けて「どう言われようが私は私」と割り切れなかったことだ。

 

最近はゆとりネタを出されると「はい、ゆとり世代に生まれてしまってすみません。」と答えるようにしている。相手がそれでどう思おうと私ができる一番の抵抗だった。

 

ゆとり世代は怒らずに褒めて伸ばそうなんてノウハウ書籍が蔓延しているけれど、どれもほとんど上辺だけの内容だ。私は自分のこういった自尊心の低さや、他人の評価を気にし過ぎてしまうことをわかっていてくれる人であれば、怒られたって構わない。むしろそれだけ自分の内情を受け止めてくれる人になら怒られたって構わない。

要はどれだけ心が深く、自分を尊重してくれているかとらいうところにつきるのではらないだろうか。

 

心と心のぶつかり合いなくして、信頼関係ができるわけがない。それなのにマスコミやら有象無象のものたちはゆとり世代という言葉を便利に利用しているだけなのだと思う。

もう一度言うが私はゆとり世代で良かったと思うことなんて一度もなかった。ゆとり世代である私を見てほしいのではない。私は私を見てほしい。どんなことで悩んでいて、それをどうやって乗り越えようとしているのか、そういう私自身のみっともなさを嘲笑ってほしいのだ。

 

ゆとり世代という言葉は便利だ。該当世代に落ち度を見つけたらその世代のせいにすればよいのだから。しかし団塊にしろさとりにしろ、「この年代に生まれてきて良かった」と思うことなどあるのだろうか。恐らく得られるのはささやかな優越感程度のものであろう。世代というカテゴリに安易に頼らずに、1人1人の人となりを見れる人間になりたいものである。

 

 

誰も愛しかたを教えてくれない

あなたのことはそれほど、ドラマ化しましたね。毎回観てます。原作から追いかけていたのでちょっとイメージが違うなと思ったりするのですが、東出くんが好きなのでそれが全てです。

 

東出くんの役である涼太というキャラクターは狂気的な愛の持ち主と謳われていますけど、なんか原作読んでいたときはあんまり考えなかったのですが、正しい愛ってなんだよと思いました。若干ネタバレになりますが、涼太の美都に対する愛し方って涼太の父親の影響を多分に受けているんですよね。愛する妻のためなにも怒らず指摘せず、ときには愛息子の気持ちさえも無下にしてしまう妄信的な愛情。子供から大人になるようにどのように愛し合うかをどうやって見てきたかってすごい影響力ですね。

 

個人的には美都もそこらへんかなり迷走してると思うんですけど、お父さん不在で大人になっているようなのでそのあたりもっと掘り下げていくと美都の「思い込みの激しさ」の所以もわかってくるのかも。

 

まぁでも涼太や美都を否定したからといってどういう愛しかたが正しいのか私はわからないです。というか、そういうのって誰も教えてくれないですよね。なんでだろうと思って。みんなそれで死ぬまで悩んだりしているのに、なんで愛しかたを教わる場所ないんだろ。見た目をどうとか仕草がどうとかいうのはあくまで入口の話であって、涼太が何をどうなおしていくか、なおす必要がそもそもないのかなんて誰も教えてくれないですよ。スタンダールだって個人的哲学を述べるにとどまっているじゃないかと否定的に見ちゃいます。とはいえ不倫はダメという認識は勿論ですけどね。でも他人を批判できるほど自分が成熟しているとも思わないです。なのでドラマはドラマで創作物として楽しみます。

 

 

 

 

 

 

 

諸々が流れてゆく

 

幼い頃のGWといえば父に連れられてメーデーに良く行ったものだった。当時はそれが何かよくわからず、とりあえず1時間くらい歩いたら1000円程度のお金が貰えてそのあとラーメン屋に連れて行ってもらえるという程度のささやかなイベントだった。今になって思えば父も休日に労働のようなことを強いられて嫌だったろうなと考えた。そういえばGWにどこか旅行に行ったりした記憶がない。記憶がないだけで経験はあるのかもしれないけれど。

 

父と出かけることは数少なかったけれど私が一番印象に残っているのは今はもう存在しない渋谷にあったプラネタリウムに行ったことだ。

小学生の頃は夜の飼い犬の散歩に父と行くことが日課だった。冬になると星が綺麗に観えるのでよくオリオン座を探しながら歩いた。時折買ってもらえる缶のココアやコーンポタージュがとても美味しかった。たくさんの星を観たいと言ったらプラネタリウムに連れて行ってくれることになり、それまでそんな場所には行ったことがなかったのですごく楽しみだった。

 

渋谷のどこにあったのか、当時は渋谷なんて大都会で大迷宮だったのであんまりよく覚えていないが、少し錆びれたつくりのプラネタリウムで映される満点の星は私にとって充分すぎるほどの情景だった。あまり父と2人で会話はしなかったので何を話したかはほとんど覚えていない。でも星見表のキーホルダーを買ってもらってとても嬉しかった。プラネタリウムを見終えたあと同じビルに入っている喫茶店で生まれてはじめてカルボナーラを食べた。今でもあのカルボナーラが一番美味しかったと思っている。

 

そして今、あの頃一緒に散歩に行った父も愛犬も死んでしまった。プラネタリウムも閉園してなくなってしまった。あの風景を覚えているのは私だけ、そう思うと涙が込み上げてくる。なんでこんなことを思い出したのか、GWだから、メーデーがあったから、星が綺麗だったから。時間が流れていく。命も流れていく。時間とともに諸々が流れていく、そんな中で僅かな記憶だけが星の様にささやかに瞬いている。

 

 

 

フォアグラを食べるのは罪か

 

昨年初めてフォアグラというものを食べた。正直めっちゃ美味かった。独特の油の風味と蕩けるような食感。さすが世界三大珍味と思った。

 

でもフォアグラを作る過程でカモの口に無理矢理肥料を注入して太らせるということを知り、そのせいで死んじゃうカモがいたり健康が失われているという事実がなんとも言えない罪悪感を生んだ。そこまでして食べる必要があるものなのかって。

 

でもいつも肉とか普通に食べてるわけで。牛やクジラを毎日殺して生きているのに、フォアグラだけ取り上げるのも偽善になってしまうのではないかと思った。

 

 

脈絡のないことこの上ない

 

愚痴=悪ではないと頭の中でわかっていたつもりでもどうしても心の中では咀嚼しきれなかった。咀嚼できないこと、脈絡のないこと、そういう鬱憤を煮詰めて日々継ぎ足して伝統の負の連鎖を繰り返している私であります。

 

気持ちばかり急いていて身体が追いつかない日々を過ごしています。もうちょっとまろやかに生きられないものですかね。口を開けば香辛料のような香ばしい焦げみたいな愚痴ばかりで嫌になります。もうアラサーで良い歳した大人が自分の気持ちの管理ができないって。周りの声を敏感にキャッチして理想を煮詰めて煮詰めてもう食べられないよって勝手にギブアップしちゃうんですよね。周りの求めている私と、私の求めている私は違うんだって言い聞かせているのですが、「〜〜であらねば」、「○○じゃなくてはならない」という思考がずっとこびりついてます。もはやただの焦げ。

 

私の自我なんて誰も食わないただの焦げ。

 

そういう精神的なところを考えていると、誰かに聞いてほしいような怖いような気がして、孤独感を感じてさみしくなる。私も愚痴の言えたりする仲間がほしいだけの、ただのさみしがりなのかもしれないな。

 

 

 

 

 

 

 

風邪を引いたら他人の存在のありがたみを感じた

 

久しぶりにウイルス性腸炎にかかり38.6℃の熱が出てもう身体がどったんばったん大騒ぎになったポンコつっこです。

 

体調不良はつらい。気も滅入るしそもそもお腹痛いし。初日〜3日経過くらいまではご飯も食べられなかったので、あーもう年度末に何やってんだろうと凹みました。

今はだいぶ落ち着いてそういえばプレミアムフライデーファミチキ貰うの忘れたと思えるほどに回復しました。皆さんはプレミアムなフライデーを過ごせましたか?

 

体調を崩していると他人のお世話になることが多いので、存在してくれることにありがたみを感じます。普段はあまり言えないけどそういうときをチャンスと思って「いつもありがとう」と感謝の言葉を伝えるのかもいいのかもしれません。

 

今回私は伝えそびれてしまったので、今度のプレミアムフライデーファミチキを貰ってプレゼントしようと思いました。まあ普通に夜まで仕事なのでプレミアムではないのですが。低空飛行な毎日が続いています。

 

 

目の前のことを、一つずつ。

 

 

いかがですかな毎日を過ごしているみなさんこんにちは。

 

花粉症らしい症状も感じる今日この頃ですが診断されたわけではない(というか受診をしない)ので、私は花粉症ではありません。なんか久しぶりに日記とか書くとどんなことを書けば良いかわからないですね。それなりに毎日を過ごしてました。めっちゃ気が滅入ったり、ちょっと持ち直してみたり。自分の心という大迷宮に迷いながらも最近は少し道が見えてきたような気がします。とはいえ右目の視力は0.8、左目は0.1というガチャガチャな状態。あなた心だけでなく目までガチャガチャなのねと自分で自分にツッコミを入れたくなります。

 

道が見えてきたきたとなぜ思えるようになってきたかというと、前は頭の中にいろんな物事が整理されずごちゃ混ぜになってなにから手をつけたら良いかわからなかったのが、とりあえず目の前にあるものをこなしていくとなんとかなるんだなということを実感できたからです。朝起きて「うわー朝つらいー」と思ってもとりあえず朝ごはんを食べると「まぁ動けるかな」と思っていたりします。本当にどうしようもなく体調が悪いときはそもそもごはん食べられなかったりするんですけど、そういうときは心身が休めと言っているのだと思ってとりあえず休みます。そうやって休むと徐々に目の前のことに取り組めるようになる。なんだ、なんとかなっちゃってるじゃんって思えるのです。

 

なのでもうすぐ新年度、新しく変わることもたくさんあるかもしれないけど、目の前のことを一つずつしっかり取り組んでいきたいなと思ってます。だからあなたも焦らなくて大丈夫なのよとエールを送りながら今日一日を終えていくのです。