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自死遺族として生きる

自殺関連



この記事を書いてからもう3ヶ月半経っているのかと思うと月日の流れは本当にめまぐるしい。
ブログで自殺のことを私はよく取り扱うけれど、ブログを始めたから考えるようになったというよりも今まで悶々とひとりで考えていたことを言語化して吐き出しているような感じです。


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自死遺族」という言葉に違和感を覚える人もいるかもしれませんが、「自殺遺族」よりも「自死遺族」のほうが一般的に用いられているのでここでは自死遺族と表現させていただきますね。



自死遺族として生きる」とはどういう意味でしょうか。なんとも後ろ向きな言葉のように聞こえてしまうかもしれませんが、私としてはそうは思っていないんですね。

父が自殺してから私は自殺という行為や人の生死について嫌というほど考えさせられました。正面から向き合うまでにはとてつもなく苦労しました。毎日が葛藤だった。TVをつければ誰々か自殺したという報道があり、漫画や小説を読めば人が簡単に死んでいる。世の中には「死」が溢れている。自殺という行為が当たり前になってしまっている。

例えば人身事故で電車が止まってしまった。聞こえてくるのは「またかよ」、「ほんとうざい」、「死ぬ場所考えろよ」という非難の言葉ばかり。そう思うのも仕方ないかもしれない。仕方ないと思うくらいに人身事故が日常的に起きているんですよね。でもそれだけ人が死んでいるってことなんですよ。「またかよ」という声のあとに「どうしてこの人はこんな行為に及んだのだろう」と少し考えてくれるだけでも死者への弔いくらいにはなるかもしれない。考えても考えても答えの出ない「自殺した理由」。

本当のところは本人にしかわからない。遺された私達は考えて想像することしかできない。永遠に答え合わせのできない宿題。私は父の死をそう捉えるようになっていった。これは父が私に遺した「生きる」ということについて考えてほしいという宿題であり、願いなのだと。だから私は自殺を通して人の生について思う、悩む、考える。

だから私は自死遺族として生きることを選ぶ。私が死ぬまで自殺という難問について考え続ける、自殺しなくてもいいと思える世の中の在り方を模索し続けたい。今自殺を考えている人に手を伸ばしてあげられるだけの人間になれるように生き続ける。今は無理でも、5年後、10年後にそうできるように思うことはやめたくない。


他人から見れば父の死に執着しているだけのように見えるかもしれない。でも考え続けていたいと私自身が思うから、今までの苦悩や葛藤を無駄にしないための生き方を探したいと思うから執着ではなく選択なのだと胸を張って言える。



自死遺族として生きるということは他人からの自殺に対する非難や誹謗中傷に傷つかないようになることではない。死を悲しまなくなることではない。むしろ自分の感情をありのまま受け止めることに意味があるのだと思う。悲しんでもいい。それは人の正常な心の動きだから。悲しんで苦しんでその先にあるものを見出したい。今はその長い長い道のりの途中にいるのだと思う。人生をかけてこの難問について思いを馳せていくのが今の私が選んだ生き方なんだよ。





読んでくださってありがとうございます。


ポンコつっ子