私たちは自殺と共に生きていく



私はidコールも言及記事も普段は書かないようにしているのですが、今回だけはどうしても書きたいと思い書かせていただきます。



フミコ・フミオ氏id:Delete_Allは私がブログを書き始めたころに友人から紹介されたブロガーさん(ブロガーという表現が適していなかったらすみません)で、同じ自死遺族という境遇もあり彼の記事は読めるだけ読ませていただきました。

今回の記事から私が感じたのはフミオ氏の自死遺族として生きていくという覚悟でした。いつもの記事はどこか後ろ髪を引かれるような、父親への思いを書かれていたように思うのです。私はその記事を読みながら共感し、ときに笑い、自死遺族として長年書き連ねてきたというフミオ氏の思いを尊んでいました。
きっと他の自死遺族の方々もフミオ氏の記事を読んで心が励まされたり共感の涙を流したりしたことでしょう。



私はロビン・ウィリアムズを知らないし、日本の研究者のこともTVでしか見たことがありません。それでも「自殺」という報道を観たときはなんともいえない思いになりました。自殺を選んだ理由を想像したりしました。でもフミオ氏が言う様に死人に口はなく遺されたものは想像することしかできない。
私は死者が書いた遺書がその宛先にだけ読まれればいいなと思うけれど、世の中なかなかそうもいかないのでしょう...ニュースで大大的に放送されたりしてしまうのです。


しかし今回私が書きたいのは報道の在り方ではないのです。



遺された人たちはどう生きれば良いのでしょうか。




フミオ氏も私も多くいる自死遺族の中のごく一部でしかありません。自死遺族として声をあげているなかのさらに一部です。フミオ氏がどういう経緯でブログを書き始めたのかは本人にしか知ることはできませんが、私の場合は書く事は宣誓であり、願いであり、祈りでした。

声をあげられない自死遺族の人々がいったいどれだけいるでしょうか。

決して自殺した人達を否定したいわけではなく、遺された側の苦しみ悲しみを自分自身が知ってしまった現在では、やはりそちら側の人々の思いを心配してしまうのです。




私の場合は自殺について考え、悩み、思いを馳せていくことが自死遺族としての私の生き方であり(それが下の記事になります)



フミコ・フミオ氏にとっては以下になるのではないでしょうか。(以下ブログより引用させていただきます)
自殺した家族の分までマジメに生きようとは思わないけれど、なるべく楽しくバカをやって生きていきたいなとは思う。自殺なんてバカなことをやった人をバカにするようにね。それが僕の戦い方、向き合い方だ。



この文章を読んで私は彼なりの葛藤の末に見出した答えなのだと思いました。そして覚悟を感じました。

自死遺族でなくともどう生きていくか、信念を持った生き方を問われるときが来るわけですが、自死遺族の多くが近親の自殺という行為と向き合い、それでも生きていく道を模索していくことがいずれ求められる。そうしていきたくなっていきたくなるときが来る。そうしたときにどれだけの心労が自死遺族の人達にかかるのか考えてみてください。

自死遺族に限った話じゃないよと思った人は、その限らない人々へ思いを馳せてみてください。

自死遺族の人に対して私は疲れているなら休みましょうと声をかけることしかできません。でももし自殺と向き合いたくなったら葛藤の中にありながらも声をあげ続けた人々の姿を見てみてください。それらはきっと鏡となってあなたの心を映し出してくれるでしょうから。

苦しんでいることは悪いことではない、泣きたくなるのも恥ずかしいことではない、自殺した人へ怒りを向けることだって人ならばあるでしょう、その思い全てが貴方にとって無駄にはならないのだから。



悲しんでこそ人。



苦しんでこそ人。




向き合わないという選択もひとつの答えだし、ずっと自殺のことを考えることもひとつの答えだ。私達には幾億もの生き方を選ぶ自由があり、権利があるということを忘れてないであげてください。


それが自殺と共に生きていくことなのだと私は思います。






フミコ・フミオさん、読んでくださった方々、ありがとうございました。


ポンコつっ子