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四半世紀生きたっていうとなんか長生きした気がするようなそんな25歳という絶妙に微妙な年頃

思考


最近昔の知人や友人から久しぶりに連絡が来ることが多い。何をきっかけにしたんですかと思っていたんだけれどももう私も25歳、言い方を変えれば四半世紀も生きたわけだ。なるほどそんな連絡も増えるわけだ。

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久しぶりに連絡をとるのはまだいいのだが会うとなるとなかなか勇気がいる。何せ私の学生時代といえば嫌な思いでがいっぱいだ。いや楽しい思いでだってたくさんあったわけだが、昔の知人に会うことで当時の記憶を掘り起こされることに抵抗があるのだろう。掘り起こされて尚平常心でいられる自信がないのだ。
それだけ自分の学生時代というのは穴ぼこだらけの落とし穴時代だったということだろうか。


「なんかふと思い出して」


といって連絡をくれるのは嬉しいけれど、何をきっかけに思いだしたのか不安に思ってしまう。あのときの失敗やあのときの痛手かしら、なんて考えてひとり頭を抱えてしまう。でも相手も単にふと思いだしただけで、そこにきっかけなんてないことがほとんどだろう。そこで私が自意識過剰になってなんやかんやと不安を大きくしているだけなのだ。



そんな不安を無理矢理に押し込めて、中学時代の先輩に最近会った。
自分の不手際で相手に迷惑をかけてしまった罪悪感もあってか、なかなか会う勇気が出なかったのだが、共通の知人の葬儀で久しぶりに再会し改めて二人で会うことになった。知人は私にとって学生時代の約半分を一緒にすごした関わりの深い人だった。先輩に会うことでその知人についての話になることも嫌だった。なぜなら知人が亡くなったことは私のなかでまだカサブタ状態だったからだ。少しいじれば簡単に生傷が露出する。それが結構怖かった。

当日私は寸前まで後悔していた。「会いましょう」なんて勢いで言うのではなかった。どんな顔して会えばいいのかわからなかった。でも相手も人だ。当時より物腰も柔らかくなり、優しく私を受け入れてくれた。
思い出話はとても弾んだ。あのときはあんなことで困った、このときはこれが面白かった。そんな話をしばらくした後知人の話になった。私の中での知人との思い出を少しずつ先輩に吐露している自分がいた。吐き出しながら気づいたのは私は亡くなった知人の思い出を共有することを実は望んでいたということだった。
お互いに知人の思い出を話して行く中で、彼がこの世に本当に存在していたのだと確認をしたかったのだ。
記憶を辿るなかで亡くなった彼の姿がはっきりと思い出されていくのを感じた。先輩と会うきっかけをつくってくれたのは彼なのだ。彼がいなければ私は今後先輩に会うこともなかったのかもしれない。

彼の姿が浮かぶ傍らで私がなぜ学生時代の思い出を掘り起こされていくことを恐れているのかふつふつと考えが湧いてきていた。私は学生時代に亡くした友や家族のことを思い出すことを恐れていたのだ。思い出すことで先立たれた寂しさを実感することが恐かったのだ。私は臆病だったのだ。
でもこの先輩と再会させてくれたのは亡くなった彼なのだ。彼がいなくては現在私はここにいなかったのだ。








私は人と関わることが恐いと思うときがある。それは大切な誰かを作るという事は、大切な誰かを失うこととほぼ同義だと考えていたからだ。
でも人と関わるということがとても愛おしく思うときがある。それは大切な誰かとともにすごす時間であり、亡くしたあとの悲しさや寂しさの中に存在しているのだ。





私も四半世紀生きた。半世紀生きた自分は何を思っているのかとても楽しみだ。






読んでくださってありがとうございます。


ポンコつっこ