揺らぐ〜自殺と孤独〜



人の心はいつも揺らぐものなのだと考えるようにしている。



孤独という波に揺られて生きている。時折その波に飲み込まれそうになりながら、なんとか自分自身を保っていられるのはどうしてだろうか。



きっかけはなんてことない会話から始まった。飲み会の席で夫婦の愚痴や家族の愚痴を話し始めた友人。それを聞いて私は「私みたいにお父さんと揉めごとを起こしたくてもおこせない人間もいるんだから家族がちゃんといるだけで羨ましいわ」と笑いながら話したのだ。
このときちょっとした苛立ちもあった。一応その友人には父の自殺のことはなんとなく伝えていた。
だから私は相手に少しだけ期待していたのだと思う。

「お父さんが死んだってのは知ってるけど、家族がいたらいたで悩むこともあるんだよ。むしろいないぶん悩まなくて良いんだからいいじゃん。」


友人がこんな言葉を投げかけて来るのを耳では聞いていたけれど、心ではできるだけ受け止めないように防波堤を必死につくっていた。

私の心は大きく揺らいでしまった。



友人には悪いことをしたと思っている。私の期待と願望を相手にぶつけてしまったようなものだから。


相手だってもしかしたら私の想像もつかないような悩みを抱えているのかもしれないし、お酒の勢いでついつい口がすべっただけだと思う。そう思いたい。そう思っていないと私は私のこの思いにどう折り合いをつければいいのかわからなくなる。




...




自殺というテーマはやはり世間的にはタブーだ。それはもう嫌というほどわかってる。
同情してもらいたいわけではない、腫れ物に触れるように関わってほしくない、でも無配慮と思える言葉はかけてほしくない。
自分はわがままだなぁと思うよ。多分私の期待するような関わりを持ってくれる人なんかなかなかいないよ。わかってるんだそんなこと。誰よりもわかってるつもりなんだ。


大切な人を失うと大切な人をつくるのがこわくなるって知ってる?


私は失うのはもう嫌だ。自死遺族として何が辛いかわからないのなら、父がどんな姿をして横たわっていたのか具体的に話してやろうかと攻撃的になってしまうこともある。私に子供ができたらその子にはおじいちゃんがいないんだよね。それは本当に申し訳ない。そんなことを考えても仕方がないのだけれど。


こうやって荒ぶってしまうのも自分の心が揺らいでいるからなんだ。


心療内科主治医が自分が関わってきた患者さんの中で自殺してしまった人達の話しをするときはいつも遠い目をしているんだ。ここではないどこかを見ているんだ。「思い出すたびに何を思っていたんだろうって考えるんだよ」と話していた。そうなんだよね。いつも考えるよ。何を考えていたんだろうってね。父の人生は悲劇だったのかしら。もしそうなら私はその悲劇も背負って生きていく道を選ぶよ。父が自殺したことも私の人生の中で必要なピースだったと思えるような生き方を選ぶからね。


お父さんは波に抗おうとしたから逆に飲み込まれてしまったんじゃないかな。


だったら私はこの波も受け入れて揺らぎ続ける生き方を試してみるよ。



波を受け入れるということは自分の負の感情と向き合うということだ。私は今とてもさみしいよ。自死遺族としての悲しみを周りになかなか理解されないという事柄が私を孤独にしていくんだ。
でも私にはこうやって文字にして伝えるという手段があるからまだ救いがある。私と同じ思いを抱いていて、ひとりになってしまっている人はいない?自死遺族というテーマひとりで抱えるのには重たすぎるんだ。ひとりで抱える必要はないのさ、吐き出しやすい場所で吐き出せばいい。


きっと私はこれからも色んな出来事で自死遺族ということと向き合わなければいけなくて、むしろ向き合って生きていきたくて心の波に揺らされながら日々をすごしていくんだ。これは父が私だけにくれた置き土産だ。


だから今はこの孤独を存分に享受しよう。