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人はいつ死ぬのか




私が子供だったころ、父と愛犬の散歩に毎日行っていた。特に強く覚えているのは冬空の中、オリオン座を探しながら歩いた、当時はまだ100円か110円だった缶のコーンポタージュを買ってもらうことが楽しみだったあの頃。あれから十数年が経ち、父も愛犬も亡くなった。当時散歩したことを、あの景色を、空気を、覚えているのは私ひとりになってしまった。




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人はいつ死ぬのか、死んだらどこへいくのか。人に限った話ではないが、生き物には死が等しく存在する。数人の身近な死を見てきた私は、死の圧倒的な力に為す術もなく、押し寄せる喪失感、悲しみ、空虚感を受け止めることで必死だった。生と死を隔てるものはいったい何なのだろう。




例えば葬儀のとき、家の中、病床で「亡くなった」とされた存在を目にしたとき、人は本能的に死を悟るのではないだろうか。そこまでいかずともそれまでの生とは違う雰囲気を感じとることができるだろう。遺体に触れる。自分の手の熱がその身体に奪われていくのを感じる。瞼がかたく動くこともなくなっている。そこにあるのは絶対的な死であった。死を悟ると人の心は大きく揺さぶられる。それが身近であればあるほどに、死という現実は受け入れ難い。



死を実感するのはその間際よりも日常にあるのかもしれないと思う。あのときいた場所にその人はいない。匂いは彼等のものでもそこに彼等はいない。金木犀の香りは一緒に歩いた時間を想起させ、オリオン座を観れば当時の姿と今を比べてしまう。
日常の中に染み入るように死は私の心を蝕んでいき、ぽっかりと穴を開けていった。これが喪失である。



穴の空いた心を埋めるために人は様々な行動をとるだろう。例えば穴の存在に気づかないようにするために喪失体験から目をそらしてみたり、色々な人と遊んで無理やり穴を埋めようとしたり、ひとりで涙を流して穴を受け止めようとしたり。私はそのいずれの行為も正解だし、不正解だと思う。そこに正しさなどない。自分がどう感じてどう考えるか...そこが一番大切だと思う。







私は父と愛犬の死をこう受け止めたいと思う。あの頃みたオリオン座や冬の空気、コーンポタージュの味を思い出して言葉にできるのはもう私しかいない。私しかいないということが絶対的な死の証明であり、私が言葉にできるということは彼等が生きていた証明だ。私が生きている限り彼等の生を証明できる。私の心が揺さぶられる度彼等の死が現実であることを感じられる。それができるのは私だけだ。あのときあの瞬間を彼等が生きていたことを証明できるのは私だけだ。それならば私は生き続けなければならない。喪失の悲しみを受け止めることが死の受容だと。涙を流すことが悪いわけではない、涙を流すのは彼等が生きていた証。私の心がある限り彼等の存在は否定できない。だから私は生きていたい。死を受け入れて、死を噛み締めて生きていくよ。きっとそれが生きるということだ。





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きっとこの文章は何度も読み返して、あれは違うこれはこうだなんていいながら私も死を実感していくのだと思う。今はまだその過程の中にあるのだと思う。だから今は今感じられることをこうやって記録していく。それが私は生きているということ。