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遺書について

自殺関連


父の遺書をもう読むことはできない。


父は書面ではなく携帯に遺言を書いていた。納骨後に母が手にとったのは父が使っていた携帯電話。その中に父の遺書はあった。今となっては靄がかかった朧げな思い出。でもそれを読んだときの思いは鮮明に覚えている。もうその携帯も電池が壊れて起動することは叶わないけれども。



父はいつも携帯をいじっていたように思う。死ぬ前は仕事を休んでベッドに一日寝ていることが多かった。横になりながら携帯をずっといじっていた。何千色の画像や何十和音で最先端と感じられていた時代のお話。これは昔々の遠い思い出。私が忘れたらこの世に存在していたことすら確かめることができなくなる微かな存在。


誰かが私に聞いた。父はなぜ死んだのかと。その答えは遺書の中にはなかった。父が私に遺した言葉は「真面目で人見知りな娘」だった。本当に私は真面目で人見知りな娘だったのだろうか。父の見ていた私と、私が見ていた私の姿にはズレがあり、私は遺書をみて「とうとう私は最後まで父に理解してもらえなかった」と思った。父には申し訳ないが、私は遺書をみて父とは分かり合えなかったと感じてしまった。あのとき流した涙は他人からみれば喪失の悲しみの涙に見えたかもしれないが、私からすれば怒りも混じった憎しみの涙でもあった。そんな言葉を遺すくらいなら最初から遺書なんて書かないでくれと。




父はなぜ遺書を書いたのだろう。




遺されるものへのせめてもの慰めか、先立つことへの罪悪感か、それはわからないが、確実にわかるのは遺された者たちは遺書に書かれた言葉のひとつひとつを必死で受け取めようとすることだけだ。でもそこに意味を求めてもどうしようもないのだ。意味など、先立つものの言葉の意味など、永遠にわかるはずがないのだから。わからないことがわかるようになるまで、意味が意味を持たなくなるまで探し続けるしかないのだ。


そんな不毛な作業を延々と続けて疲れ果ててしまう人が世の中に何人いるだろう。私もかつてはそのうちのひとりだったわけだが。


意味は自分で見つけるしかない。遺された言葉の真意など遺した本人にしかわからない。それは遺書に限った話ではない。何事においてもそうなのだ。私はそう考えるようにしている。それが私の中での真意であって、他の人が同じ様に思う必要はないのだ。私は生きていかなければならない。生きて行く道を選んでいる。それを決めただけだ。





今は遺書をのこしてくれたことを感謝しているよ。