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ブログを始めることができて良かった

思考 カルチャー

今週のお題特別編「嬉しかった言葉 」
〈春のブログキャンペーン ファイナル〉



私は私という存在を特に秀でた存在だとも思っていなかったし世の中から私が消えたくらいで世の中は変わったりなんかしないんだってずっと思っていた。


ブログを始めた動機は今までも書いてきたつもりだけれど、無職で時間が有り余っていたことや社会に何とかして繋がりたいという願望だってあったりした。そして自死遺族という私の存在の孤独さを誰かに気づいてもらいたかった。そう、私はずっと孤独だった。心がよろけそうなときに誰かに助けてもらいたかった。自分の気持ちを受け止めてもらいたかった。それがこのブログを始めた一番の動機なのかもしれない。


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一番のきっかけはやはりこのエントリーだと思う。

私の父は自殺した〜自死遺族としてすごした十数年間〜 - 心がよろけそうなときに読むポンコツ日記

このエントリーは書くのに4、5時間費やしたと思う。ひとつ文字を打つたびに涙が込み上げてきた。そのひとつひとつを必死に言語化していった。言霊と言ってもいいのかわからないけれど、どの言葉も私の思いが凝縮されているように思う。心を削って文章を書く、そんなこと小説家やライターでもない限り人生の中では限られた行為だと思う。私は私を受け入れてもらいたかったし、私のように受け入れられたい人達を受け入れたかった。それが自死遺族ではなかったとしても、人の孤独というものにとかく惹かれていた。私は世の中の孤独を学びたかった。孤独を受け入れたかった。そうすれば人間のほとんどの苦しみは和らぐと思っていたからだ。ひとりで寂しく涙を流すひとを想像しては涙を流す。自分の淀んだ思いも一緒に流されていくように。



「言葉」という方法を考えた人間はすごいと思う。私達は言葉によって殺され、救われるのだ。言葉は毒であり、薬だった。使い方を間違えれば簡単に殺される。特にこのネットという世界においては言葉の持つ力は甚大だ。文字だけで作られる世界。ブログもそのひとつだ。

私もブログに心を潰されそうになったことがなんどもあった。いっそのことこんなもの止めてしまおうか、だってお金が入るわけでもないし、特に利益が生じるわけでもなく、ただただ毒をぶちまける桶のように扱われて。こんな世界に意味があるのかわからなくなる時がなんどもあった。

しかし、それでも、私にとってブログは宝だった。大袈裟と思われても仕方がない。でも私にとってはそうだったのだ。心を削って言葉を紡ぐ作業の喜びをあなたは知っているだろうか。言葉を表現できるというのは至高の喜びだと思う。書くことの喜びを知った人達が書くことを諦めないのだと思う。書くことによって光明を得るのだ。これは人として生まれた喜びなんだ。書くことによって流した涙が宝物なんだよ。

嬉しかった言葉の意味を考えると、心がこもった言葉が嬉しかったように思う。先ほどのエントリーは私の心の叫びのようなもので、だからこそ共感されたり、励まされたり、ときには批判されたりしたけど、それでも私は嬉しくて泣いたことはあっても他者から向けられた言葉が辛くて泣いたことはなかった。ブログの中での涙はいつも喜びのなかにあった。そう思えるのも、他者からの言葉を読むことで、他者の心を窺い知ることができたからだと思う。他者の言葉を読むとき、私は孤独から少し救われた気になった。だから私は言葉を愛しているし、言葉に愛されたい。私のこの想いが続く限り私の言葉探しは続くのだろう。それが誰かの胸を打つのなら、其れ程喜ばしいことはないんだよ。



私は言葉に愛されたい。


私は言葉を愛している。


心のこもった言葉が嬉しかった。あなたにあってもそうであるように祈り続けている。