なぜブログを始める人が後をたたないのか




心華やぐインターネットがいくら栄えても人の思考というのは変わらない。誰かにわかってほしい、誰かをわかりたい、自分を理解してもらいたい、誰かに自分を知ってもらいたい。そんなとき人は思いを言葉にして伝えるのだろう。


はてなブログを見ていても、注目ブログや人気エントリは目まぐるしく変化している。一年前とはだいぶ違った人達がブログを書いている。おそらくその一年後には今書いているうちの半分の人はブログをやめているだろう。それぐらい書くことはめんどくさいし、手間なのだ。しかもブログとか所謂ネットなんてものは勝手に見て勝手に批判して無言で去っていったとしても誰にも咎められない。労力の対価はほんの僅かかもしれない。ブログなんてものは。そうやってたくさんの人達がブログに愛想を尽かしていくのだろう。どれだけ頑張ったって読まれないものは読まれないし、勝手に読まれたりするものだ。時折意図せずとも炎上したりする。「炎上」はネットの代名詞にもなりつつある。たくさんの人が誰かを、誰かの何かを消耗品として食い荒らしていくのだ。なかにはそれをなんとも思わない人だっている。ネットだから何したって許されると思っている人もいる。《ネット》特にブログなんてものは言葉だけの世界だから私はたまにここは監獄なのではないかと考える時がある。言葉に縛られた監獄。おいたをすれば罵声を浴びせられる監獄。この檻の中でなんとかもがき続けている。


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しかしなぜだろうか。ブログを始める人は後をたたない。目まぐるしく変わるエントリ、そこにはどんどん新しい顔が溢れてくる。みんな「炎上」だって知ってるだろうに、書くことを始めたがる。なぜブログを始める人が後をたたないのか。そこに人が求める何かがあるからだろうか。

何かとはなんだろうか。人はそれを承認欲求やら自己顕示欲やら例えたりするが、果たしてそれだけなのだろうか。誰しも誰かに認められたいと思って当然だと思う。自分を見てほしいと思うのだって当然だ。それほど社会は大きいし、人間ひとりの存在なんて米粒よりも小さい。100年後には存在していたことすら忘れられる人がごまんといる。ネットがなくてもあってもその事実は変わらないだろう。

だけど現代に生きる私達はネットという武器を持っているのも事実だ。ネットは盾であり、矛だと思う。ブログはどちらかというと矛かもしれない。この矛で誰かの記憶に自分を刻みつけたい。社会に消えない傷を残したい、そんなたいそうなこと考えてはいないだろうが、自分が生きた証を遺す武器のひとつがブログなんだと思う。私も無職のころからブログを始めた。無職のブロガーもたくさんいるみたいだ。みんな言葉は何であれ自分が世の中に存在していることに気付いてほしいのだと思う。私がここにいていいことを証明したい。それが生きる意味になることだってあるのだから、ブログは凄まじい武器なのだ。


ネットに繋がる環境さえあれば誰でもブログを始めることができる。伝わるかどうかはわからないけど、伝えようとすることはできる。これは伝えることすらできなかった時代と比べれば大きな変化なんだ。故人がペンを握ったように、私達はキーボードを押し始めるだろう。ここは監獄。恐ろしく広く、悲しいほど自由で、希望に満ちた監獄なのだろう。