読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

批判ではなく指摘をし合いたい

思考


最近ミュゼプラチナムに興味のあるポンコつっこです。


せっかくの金曜日ですし、文句を言いながら気晴らしにお酒を飲むより夢を語りながら杯を酌み交わしたいじゃないですか。美味しいお酒があると幸せなんですよね。お酒ってすごいですよね、飲むだけで幸せになっちゃう。ビールはもちろんのこといも焼酎や日本酒だって舐めちゃいけない。ちびちび飲むのも悪くない。唐揚げにはやっぱり





まぁそんな与太話はそこそこに、世の中には批判がいっぱい詰まってるんですね。どこを観ても何を聞いても批判批判、批判のハイボール。私自身も当たり前のように、何も気づかずにさも当然のように言ってしまうことがありますね、批判。それで批判される側の気持ちってよくみんな書くと思うんですけど、たまには批判をしている自分について書くのもありなんじゃないかと思いましてね。

f:id:ponkotukko:20150717195131j:image

そもそも批判をするときに何を重要視していたか考えてみると、批判して何かを正したいというよりも批判したくなった私の思いに共感してもらいたいという気持ちのほうが強いかもしれません。

多分批判をするときにあまり頭を使ってないです。同じことを繰り返し言ってる。私が気にくわないと思ったことを、私の思いが伝わるように相手なり事なりに伝えてますね。主語は自分なんです。私情山盛りつゆだくなんですよね。私が不快に思ったことを同じように他者に感じてもらいたいんです。でも、これって怖いですよね。が正しいか正しくないか判断するのではなくて私が正しくあること前提で話すのですから。自分の思考や判断に責任持てるんかいって思いました、今。主観の共感というのはポジティブな感情であれば幸せをもたらすけれどネガティヴなものであれば敵を作りますからね。


○「□子ってムカつくし嫌いなんだよね〜」

△「私もA子嫌い〜わかる〜」


○、△「まじで〜!?一緒じゃーん。じゃあ□子とは関わるのやめよ〜」



という感じで誰かや何かをつまはじきにしてしまう可能性だってありますからね。批判ってすごいですよね。というより、主観って怖い。誰も主観が正しいかどうかなんて判断できないから。主観と主観がぶつかり合う、その地はすでに焼け野原だった現象ですよ。



じゃあ客観的な批判をしたらいいじゃないと思うのですが、批判をする際に主観を交えずに言語化するってそれができたら相当なコミュニケーション能力の達人なんですけれど、そもそも批判という言葉自体に「誤りを正す」という意味が含まれているので既にネガティヴな意味合いとして捉えられちゃうんです。相当高確率で。だから批判じゃなくて、異なる意見の擦り合わせができれば良いなと思うんです。それを示す言葉を考えてみたら「指摘」でした。主観だけではなく他の価値観も得られて、その結果みんなでまぁいっかと納得できるような意見の酌み交わし。それこそ杯を酌み交わすように、楽しい意見のぶつけ合い。矛盾しているように聞こえると自分でも思いました。あくまで理想でしかないし、ある人にとっては偽善かもしれない。でも批判だと他を寄せ付けずに終わったものが、指摘に代えることで次の方向を示すことができるかもしれない。「私はこう思った。貴方はどう思うか。」というやりとりが当たり前のようにできたら良いなと思います。


そう思った理由を突き詰めていけば、批判をするときには自分の気持ちや考えを受け止めてもらいたかったという思いがあり、その様な願望は誰しも持っているだろうと考えているからだと思いました。誰かに気持ちが伝わるのは嬉しい。誰かの気持ちが伝わるのも同じくらい嬉しい。そんな心のやりとりを切に願う寂しがりやな自分の姿が垣間見えたからだと暴露しちゃいます。心のムダ毛を抜きました。心のミュゼプラチナムしちゃいました。夏なので露出も多めです。


ポンコつっこでした。