僕の心を君にあげる



自分の思っていることを言葉にするのは難しい。言葉を口にすることも難しい。心に頭が追いつかないのか、頭に心が追いつかないのか。「私はこう考えている」それを相手に合わせて論理的に言語化できる人を尊敬する。これは歳を得てどうこうなるものではない。日々の鍛錬の積み重ねだと思っている。ブログを書くこともある意味、その一貫なのかもしれない。


心を言葉にすることについて考えてみる。私はよく理屈っぽいと言われる。なんとなく自覚していることである。私は直情的であることより理論的であることを理想としている。だから何事にも理由があると考えてしまう。とかく自分の心については直情的な感情にすらその理由を問うている。無意識がどのように起こるのか考えることを好んでいる。その様な偏屈な人間なので、会話をすることよりもこの様に自分のペースで心を言葉にするほうがしっくりくる。例えば会社の面接で突然自己PRを求められたらしどろもどろになってしまうのが私の様な人間だ。咄嗟に理論を組み立てられるほど理論的にもなれず、インスピレーションで何かアイディアを出せるような直感もない、そんな凡庸な人間が私なのだ。


ヒツジにでも生まれれば良かったとぼんやり考えたりする。理屈も感情も放り投げてしまいたくなる。そんなとき私は人間として生まれた意味を考えてみたりする。なぜ私は人間なのだろう。なぜ道草の花ではなく、空を飛ぶ鳥でもなく、ずっとずっと面倒くさい、他の動物にとってはどうでも良いようなことを考えたりする人間に生まれたのだろうと考えたりする。もっと気楽に生きられたら良いのにってなんども思う。極端な話、縄文時代ならうつ病なんてなかっただろうと思うんだ。そんな意味不明なことを考えて、私は、縄文時代の人間にはなれないなと思い直してみたりするのだ。
それはなぜかと自分に問うてみる。おそらく私は、自分の心が動くことに喜びを感じることができている。その心を言葉にする苦労すら生きている喜びだと涙することもある。他の動物なら泣きもしないところで勝手に感動して勝手に涙する、そういった意味不明な生き方が嫌いではないのだ。
そうだ。理屈を持つことも、感情を抱くことも、ひいては生への喜びに繋がるのだ。嬉しくて泣いたとしても、どうしようもない怒りに震えても、失った悲しみにくれても、その感情自体が喜びであり、その感情の過程すら喜びなのだ。もっと単純に生きることも選ぶことが出来たはずなのに気づけばいつも面倒くさい心の理由を探してる。きっとずっとずっと探し続けて死ぬのだろう。

生きているってなんて素晴らしいんだろう。生きているかぎり悩み続けることができる。このくだらない感情と理屈の有り様を問うて。それで答えが出なくても、それでも今は悩むことができるだけで。もうそれだけで私は生きていける。