「自分の常識=社会の常識」ではないと思っておかないと色々つらい



「○○するのは常識だ」

「常識的に△△するのはありえない」


「常識」とは?


常識とはいったいなんだろう。一般的な見解、大衆化した認知とでも言えばいいのだろうか。今、常識に縛られて、常識に押しつぶされそうな人間がどれほどいるだろう。常識というそのものに疑心暗鬼になりそうな夜、いったいなにを考えればいいのだろうか。


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大辞林にはこう書かれていた。

じょうしき【常識】①ある社会で,人々の間に広く承認され,当然もっているはずの知識や判断力。 「 -では考えられない奇行」 「 -に欠ける」 ②「 共通感覚 」に同じ。 〔「哲学字彙」(1881年)に英語 common sense の訳語として載る〕 
出典:三省堂

まぁなるほどなぁと思いながら、当然もっているはずの知識や判断力とは?と考えてしまう。というのも、そんな力なんて場所が変われば、時代が変われば、あっという間に変化してしまうのに、そんなものを簡単に人が定義していいのかという疑問が残るからである。
人は、他人に主張をするとき、「常識だから」という言葉を多用する場合がある。それはある意味筋が通っている。世間的に見ればという視点においては。しかし個人の見解はそこに介在しない。「常識」だからという言葉を使用するとき、その人は「自分の考えや認識が大衆から承認されているものだ」という前提があって話しをしているのだと自覚しておく必要がある。そうでなければその主張は成り立たなくなるからである。自身の考えを世間という秤と照らし合わせて、その考えが常識か問わなければならない。面倒な話だが、人は何かを言葉にするとき、その言葉の意味を深く考えることが大切だろう。そうすることで言葉に心が重なり、重みを増すのである。


「常識だから」がなぜ主張として通るのか、ということについても考えると面白い。「常識」とは誰を主語にするのかによって大きく意味が変わるのだ。例えば辞書から引用するならその場の主語は「大衆」だろう。広く万人に伝わった認識、それが常識なのである。しかし実際のところこの常識が正しく使われることは少ない。人によってはその主語が「親」、「上司」、「地域」、「年齢」など様々であり、「自分自身」であることも多分にありえることである。それを踏まえておかないと私達は常識という言葉の意味を捉え間違いかねない。


自分が常識という言葉を言う時、言われる時、それが何処の何物の常識なのか冷静に分析して用いることが本来あるべき姿であると考える。自分の主張を通すための便利な言葉として「常識」を使用するといざという時議論が成り立たなくなる。そのことに留意して自分の考えが常識足り得るのかどうか、そのとき想定した常識はどの様なものであるか考えを深めていくと自分の思考がより深められるだろう。それを繰り返すことで自己の思考の常識との整合性が保たれるのである。