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「家族なんだから大切にしてあげなよ」という言葉に内包された哀しみ

思考

人はある言葉を発することで、そこに希望を見出そうとすることがある。それは自分自身に対してだけではなく、他者に対しても同じだ。個人の価値観というのは恐ろしい。個人の価値観が、同じように他者の価値観であると無心で信じるのはある種宗教的な観念を孕んでいるのではないだろうか。それゆえに己の価値観を重視し、己の価値観を疑う。自己の価値観など他人にとってはどうでも良いことばかりである。それに気づいたとき、私は寂しさを感じた。



なんの変哲もない、ありきたりで、世の中に溢れ切っているような言葉である。



「家族なんだから大切にしてあげなよ」



家族を何も疑わず、一切の曇りもなく、信じて大切にできる。それが当たり前だと考えている人が世界にどれだけいるのだろうか。私は「家族だから大切な人」もいるし、「家族だから大切にできない人」もいる。それはなんだかいけないことのようだ。家族=大切が当たり前っていいなあって思う。理想はそうありたい、そうあってほしい。そりゃそうだ、家族なんだから。一緒に暮らしていればそりゃ大切だ。大切なんだろうよ。それでも一緒に暮らすことが苦痛な家族だっているんだよ。

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確かに家族だから大切にしようと思えたらいいだろうなって思う。でも家族の財産を、健康を、心を、蝕んでいくだけの家族もいるんだってことも同じくらい伝えたいと思っていて、そういう複雑な思いほど人は口に出すことができずに哀しみばかり募るばかりだってことも知ってほしくて。
でもそういう配慮ばかりしていたら誰も何も言えないじゃないって言われたり、「家族なんだから大切にするのは当たり前だ」って常識だと押し付けられたり、そんなとき私はそんな言葉を発した相手に飛びかかってしまいそうな思いを抱えながら「そうですよね〜、あはは!」なんてどうでも良い様な相槌を打つんだ。


でも実際に家族に苦しめられている家族がいるっていう現実があるってことくらいは周知の事実であればいいなと思っているんです。だって人は知れば言葉だって変わるかもしれないじゃないですか。だから私も馬鹿みたいに何度も何度も書くんです。「家族なんだから大切にしてあげなよ」という言葉に含まれる可能性の一つを伝え続けています。みんな家族が仲がよければそれが一番だって思うでしょう。でもどうしてもできない理由がある人間の哀しみも現実にはあります。それを少しでも誰かにわかってもらいたくて、わかってもらえたら泣きたくなるような夜に金木犀の香りが少しだけ優しいものに感じられるのでした。