死んだも流行りと廃りモノ



そろそろ父が生きていた時間よりも死んでからの時間のほうが長くなりつつある私の人生が同様に父の存在を薄めていくかというとそうではないわけで、むしろ父が死んだ歳に近づいていくことに対するじわりじわりとした不安やそれ以降の自分の生き方について考えてみたりしている。


自殺も流行り廃りがあると思う。自殺対策基本法が施行されたのが平成18年。年3万人超えの自殺者に何としても歯止めをと国が動き出してから数年、国から都道府県、自治体へと対策基金が交付された。そして年間自殺者は3万人を下回った。おめでとう、おめでとう本当にとニュースは言ってたけど最近は報道も減ったね。対策基金も少しずつ終わり出した自治体がある。自殺も流行り廃りがあるのかな。

まぁ世の中というのはそういうものかもしれない。震災なんか典型的なそれだ。年を重ねるほど関心が減っていくように思う。人はひとつのことに関心を向け続けるのが難しい生き物だから、それこそ自分自身に大きな影響を与えたような、そんな大きなな事象でない限りは考え続けることがつらくなってしまうものだ。


とはいえそれでも私の父の自殺という事象が心の中の相当の割合を占めていることに流行りも廃りもないわけで、そういうときいつも社会と個人の解離を感じ孤独になる。だけど前向きに生きましょう、頑張りましょう、勝つまでは。いったい何に勝てばいいのでしょうか。自殺に勝ったところで父はもう死んじゃったのだから、もう戻らない命に心を横たわらせるくらいのことしか私にはできない。どんな問題だって流行り廃りがある。自殺が流行ってほしいだなんて思ってない。でも当事者以外は時間が経てば自殺という事象なんて忘れてしまうのかも、そんなことを考えて少しさみしくなっただけです。