バス事故報道から考える命と心の扱い方について



結局のところ、感情論です。



とはいえ、感情というのは無視できないものだと思います。感情で全ての物事を判断するのは人の倫理とは掛け離れているかもしれませんが、感情を一切含まずにものを考えることしかできなくなってしまったらそれはもう人間とは言えないのではないでしょうか。

今回の軽井沢でのバス事故については、本当にたくさんの人の命が消えてしまったことを考えると、その無念さと、家族や恋人、友人、由縁のあった人々の悲しさは慮ることすら自身のおごりだと思えるほどに辛いものだと思います。私は多分世の中で、毎日の様にこの様な事故が起こり、誰かが亡くなっていることを至極当たり前のことのように無意識に受け入れていました。人の命が失われることについては、私も父を亡くした当事者であったから思うことですが本当にその当事者にしか、その人の悲しみは理解できないことだと思います。むしろ自分にとって身近な人の死でなければ、死を現実のこととして直視できないのではないでしょうか。だから我々はテレビや新聞などの報道を通して誰かの死を毎日毎日目にしているだけで生きていられるのだと思います。そうでなければ、ひとりひとりの死を直視して傷んでいては、今度は自分の心が死んでしまいそうになるから、そうやって少なくとも私は自分の心を守っているのです。


今回の事故は若い男女の死ということから盛大に報道がされています。日を重ねるほどに死者の人生が暴かれ、悲劇として私達のもとへ情報が流れています。私はそのことに対して、それが良いことなのか悪いことなのかわからずにいます。ただ私は亡くなった人達の家族や恋人の心が今どの様な状態にあるか、そればかり考えています。

前述した通り私も家族を亡くした1人であります。亡くなった父の死因は自殺ですが、もし父の死が白日の下に晒され大衆の目に触れるように報道されていたら、私はどんな心境だっただろうかと、どう考えてもポジティブに肯定的に捉えられるとは思えなかった。バス事故の死亡者はどんな人間でどんな学生生活を送っていてどんな夢を持っていたか、その人となりがテレビでは語られていますが、いったい私が報道で得た情報だけで彼等の何を理解できるというのでしょうか。報道によって得られる何かと、大切な人を失った人の悲しみは等価値ではないのではないでしょうか。いったい何のために彼等の人生はテレビで語られているのでしょうか。私にはそれがわからないです。わからないし、それよりも死者の関係者の心が報道によりこれ以上傷つかないことを願ってしまいました。今テレビで流れているそれらはいったい何のためにあるのでしょうか。報道とはいったい誰のためにあるのでしょうか。それを考えてしまいます。


警察署に今月の事故による死亡者と負傷者の数が掲示されていることはご存知ですか。今月私の住んでいる地域では3人と書いてありました。3人は少ないですか、多いですか。死亡者の人生はどの様なものだったのでしょうか。死亡者の家族はきっと悲しくてつらいだろうな。その様に他人の死を想像して悲しむくらいしか他人にはできないのではないでしょうか。毎月警察署の前を通りながらそんなことを考える私は、今回のバス事故の報道を通して、報道が誰のためにあるのかということと、人の心の行く末を憂うことくらいしかできず。報道する側の人にだってもしかしたらイヤイヤ今回若者の死は取り上げると視聴者に関心を持ってもらえるから、そうすれば視聴率が増えて報道する側の人の家族にご飯を食べさせてあげられるから、だから嫌々報道をしているのかもしれない。
そんな背景を想定すると誰も救われず報われず、そもそも私達の心や命は何のためにあるのか、報道は何のためにあるのか、そういった数多の存在に対する疑問を抱えてどうしようもない気持ちに襲われるのです。