実は心が泣いていた


だいぶ精神的にタフになったと思っていた。



父のことを思い出すことも減り、思い出したとしてもある程度は心の中で整理できていた。こうやって少しずつ薄まっていくのかなと思っていた。誰かが言ってたように、悲しみも寂しさもポケットの中の小さな石ころになると、そう自分に言い聞かせる必要すらなくなっていた日常をありがたいと思う心すら忘れてしまっても。



ある文章を読んだ。その文章を読んでどう思ったとか、どの文章なのかとか、そういうことは既にTwitterとかで書いているので気になる人が探してくれればいい。
私は動揺していたのかもしれない。自分の中で必死に整理した心をかき乱されたようで。そしてこうも簡単に揺さぶられてしまう自分の心に衝撃を受けて。
別に寂しさから逃げていたつもりも目を背けていたつもりもない。本当に私の心は安寧を得つつあったのだと思う。ただ久しぶりにダイレクトに心がショックを受けていたんだと、そう気づいてようやく、そういえば私は自死遺族だったのだというあの生々しい想いを思い出したのだ。実は心が泣いていたのだということにしばらく経って気づいた。





生きていることに感謝しましょう、でも毎日感謝するってつらいね。生きるってこんなに重いことなんだ。私たちは生きていることを当たり前のように受け入れているけど、本当は生きているって当たり前ではなくて、いろんな人に助けられて、運良くタイミングが重なって生きていると私は考えている。命があるということを当たり前に感じられているというのは幸せなことだと思う。しかしそればかり考えていると、当たり前から外れて亡くなっていった父のことを受けとめきれなくて、また心が泣く。なんでうちの父は当たり前じゃなかったのかな、そんなことを考えてしまい悲しくなる。そういえば私、泣いてばかりだった。


泣かなくなったのは、泣いてもいいと思えるようになったからだ。泣いても私を受け入れてくれる人がいたからだ。そう感じて初めて私は生きていて良かったと思えた。生きていることに感謝できた。そう考えていたらだんだんと生活が落ち着いて、前を向けるようになって、いろんな人と関わりながら泣いてしまう自分を少し許せそうな気がしたのだった。
ある文章がきっかけとなり父が亡くなってからの時間を少し思い出した。ポケットの中にはまだまだ大きな石ころがあったみたいだ。私が何年も何年も抱き続けた石ころがあった、それに気づけて良かった。


自分の心が泣いてたとしても、怒っていたとしても、受け入れて大切にしてあげてもいいのかもしれない。心は揺さぶられていいのだ。そこから得られるものをちゃんと拾っていけばいいんだ。そうやって許せてから初めて、他人の心を大切にできるような気がしているから。他人の心を大切にしたいから、自分の心を大切にしてみよう。この文章を読んでくれた貴方もそうしてみようと思ってくれたら、そんなに嬉しいことはない。