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一億総監視社会

日常 カルチャー


自由の変化について書かれたこの記事。昼飯を食べながらポチポチと何気なくネットサーフィンをしている。そもそもネットに自由なんて存在していたのだろうか。昔はあったという通説すらまやかしに思える。


片手間にインターネットが使える時代になった。最近は辞書は使わずネットで調べものをする。何を調べるにもネットは必要不可欠な存在となった。高齢者もスマホをサクサクといじっている。インターネットは環境さえ整えばだれもが使えるようになったのだ。その環境の敷居もだいぶ低くなった。もはやネットがないと生活に支障が出る人すらいるだろう。インターネットが私達の生活を蝕んでいる。少し時間があれば、食事中に、寝る前に、パソコンを通して、スマホを通して、テレビを通して、ゲーム機を通して、だれもがインターネットを使える時代がやってきた。

そういう意味ではインターネットは自由なのかもしれない。確かにインターネットは世間と言っても差し支えないほどに広がってしまった。誰も私のことを知らない。私も貴方のことを知らない。知らずともインターネットを通して貴方が何を考えているか知ることができる。貴方の言葉を知ることができる。地球上の誰とでもどこまでも。それはとても自由なことだ。

自由の果てを私達はまだ知らない。知らないからどうなるか推測することしかできない。今のインターネットは私刑の世界だって誰かが言ってたけどほんとそれ。法が人を裁く前に人が人を裁く。顔も知らない声も知らない誰かが私のことを知っている。私の行いを見ている、片手間に、おにぎりを頬張りながら。ゲームをしながら誰かが誰かを裁いてる。いつでも何かを発信している分、いつでも誰かがそれを見ている。少しでも綻びがあれば誰かがそれを批難する。それはとても窮屈で、見たくないものまで見えてしまって、それはまるで世界中の誰しもに見張られているような、そんな不自由さを抱えている。インターネットが栄えた今、政治家すらネットの匿名の声をもとに政治をする。誰も言葉に責任を持たず、失敗を喜ぶ人が屯ろしている。秩序が崩壊しつつあるその世界は「一億総監視社会」と言っても過言ではない。


だからこそインターネットの使い方を考えていかなくてはならないのだと思う。自浄されたインターネットには自由があるのかもしれないという期待を抱きながら、今日もインターネットの海を漂う。