絶対評価と相対評価はどちらが良いのか

 

 

親たちは、難関校合格がわが子にもたらすかもしれない不幸も、イメージしておいてください。 - Togetterまとめ

 

 

このツイートまとめを読んだ。「自己重要感」「自己肯定感」などについて書く。

 

他人と比較されることについてはおそらくずっと私達の身の回りについて離れないと思う。所謂相対評価というのは「自分」と「その他」、「何かA」と「何かB」を比べればよいので評価がしやすいのだ。一番楽で明確な評価方法である。そして明確であればこそ評価された側の人はその評価に根拠を持てる。自信がなくても自信が持てるのが相対評価だと思う。

 

一方で絶対評価というのは明確な根拠が見えづらい評価方法だ。他人と比べるのではなく「自分がイメージする自分」「理想とする自分像」と現在の自分を重ね合わせている。通知簿的に言うならある程度の評価尺度もあるのかもしれないけれど、本当にその評価尺度が世界中に均一に浸透しているかは疑問がのこる。

 

学生時代はなんだかんだいって相対評価が重視されるものだ。勉学、運動、あらゆる要素において優劣が決まってしまうものだ。しかし学校という枠を出て、社会に出てみると相対評価だけでは自己肯定感を得るのは困難になる。

単純に母数が増えるということもあるが、評価項目すらも多様にありすぎるのだ。そのような中で自己重要感を培うのは困難と言って良いのではないか。

 

ある著書によると現代の若者の青年期はおよそ30歳ほどにまで上がりつつあるのだと言う。大学進学者が増えたこと、社会の複雑化などいろいろな要素があるという主張であった。

 

私達は私達をどのように肯定するかということを考えなければいけない時代になっているのではないか、その様なことを最近は考えている。

 

私はとにかく自己肯定感が低い人間なので、何か一つでも失敗すれば全てが失われたかのように落ちこむし、簡単に言うと自意識過剰なのだ。書店にいけば自己肯定感に関する書籍がたくさん並んでいるが、根本的な解決というのは本に書いてあることを鵜呑みにするだけではかなわず、その材料をもとにうんうん唸って悩み抜かなければならないのだ。

 

ただただ辛い作業だ。

 

結局「自分のイメージする自分」と「現在の自分」が完璧に合致することなんてないし、合致しなければいけないという訳ではないという結論に至り、そこで初めて「自分はこのままで良いのだ」と思えたのだ。自己肯定感や自己重要感を得るために必要だったのは適切な評価方法や優れた能力ではなく「自分が自分と向き合う時間」だった。その時間の中には一人で悩む時間の他に他者との対話もある。日常を生きていくなかでなんとなく「あ、これだな」というものがみつかったので、もしかしたらラッキーだったのかもしれない。個人的には相対評価重視のスポーツだって自分の運動能力を高めるために楽しめたら良いと思うし、自分の理想とするプラモを作ることだって楽しいことだと思う。

 

 

今回の記事の題名についてひとつ提案できることとしては「自分を肯定するだけに充分な時間を焦らずにじっくりかけていくこと」である。絶対評価相対評価も自分の都合の良いように利用してしまえばいい。

(偉そうなことを言いながらもお正月に体重が3kg増量したことで自己嫌悪になっている)